上杉機関 別館

※当ブログは常に3分程度で文章を仕上げています。そのため、誤字脱字がありますが、時間に余裕ができたら、後で文章を修正をしていきます。 キータッチが直接日本語入力なので、酷い文章になっています。外国人ではないので、安心してください。

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安倍首相のオバマ政権への賄賂(わいろ)日米密約。やはり「50兆円の米国債買い」である。

安倍首相のオバマ政権への賄賂(わいろ)日米密約。やはり「50兆円の米国債買い」である。
投稿者:副島隆彦


大学教授、副島隆彦先生からの告発。政治記事の的中率はそこそこ高い。

副島隆彦です。 今日は、2013年2月25日です。

 「行きはよいよい、帰りはコワイ」 と 一昨日、植草一秀氏が私との講演会での対談の席でも言っていました。 現在、急激に降って湧(わ)いたような、「円安、株高、土地値上がり」の 浮かれ騒ぎの ようになって、まるでこれで日本の景気が回復する、というような 「花見酒(はなみざけ)の経済学」を日本の 富裕層と 経営者たちはやっている。

安倍首相はアメリカでのオバマ大統領との日米首脳会談(2月22日)の、”意気揚々たる”成果をひっさげて帰ってきて、早速、日銀総裁人事をやっている。




教育再生実行会議のメンバーに大竹美喜氏の名前
投稿者:渡邊隆史
投稿日:2013-01-12 10:27:05

安倍内閣の教育再生実行会議のメンバーが発表になりました。
各布陣の中でも比較的、イデオロギー色が出た顔ぶれだと思われます。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130110/plc13011021310022-n1.htm

(転載開始)

教育再生実行会議の委員が内定 座長に鎌田薫・早大総長
2013.1.10 21:30

 文部科学省は10日、今月下旬に発足する「教育再生実行会議」の委員15人を内定、発表した。座長には早大総長の鎌田薫氏が就任する予定だ。鎌田氏以外の委員は以下の通り。

 大竹美喜(アフラック最高顧問)、尾崎正直(高知県知事)、貝ノ瀬滋(東京都三鷹市教育委員会委員長)、加戸守行(前愛媛県知事)、蒲島郁夫(熊本県知事)、川合眞紀(理化学研究所理事)、河野達信(全日本教職員連盟委員長)、佐々木喜一(成基コミュニティグループ代表)、鈴木高弘(専修大付属高校校長)、曽野綾子(作家)、武田美保(スポーツコメンテーター)、佃和夫(三菱重工会長)、八木秀次(高崎経済大教授)、山内昌之(東大名誉教授)-の各氏。

(転載終わり)

ふと気になったのはここに大竹美喜氏の名前があるところ。
これは「今日のぼやき143」で副島先生が「メフィストフェレス」と評した大人物でしたね。
タカ派主導となるのは織り込み済みでも、それが「反米化」しないためのくさびでしょうか。


http://www.snsi.jp/bbs/page/2/

黒田東彦(くろだはるひこ)アジア開銀総裁(元財務省 財務官=No.2)が日銀総裁になり、岩田規久男(いわたきくお)学習院大教授が、副総裁になりそうだという。  岩田規久男は、ジャブジャブマネーの推進者で、日銀攻撃の急先鋒だった。

 すべてのシナリオが、日本の財務省を屈服させる形で、安倍首相を操る竹中平蔵のシナリオどおりに進んでいる。 以下の新聞記事が、一番重要だ。 注意深く読んでほしい。

(転載貼り付け 始め)

「 首脳会談、米側は抑えた反応 メディアの関心も低調 」

朝日新聞  2013年2月24日(日)

22日、ホワイトハウスでオバマ大統領(中央右)と会談する安倍晋三首相=ワシントン、樫山晃生撮影
 
【ワシントン=伊藤宏】  安倍晋三首相とオバマ米大統領の初の首脳会談をめぐり、米政府はオバマ大統領の発言をほとんど発表せず、米メディアの関心も低調だった。実務的に会談に臨んだオバマ氏の姿勢は、政権交代の成果を政治的にアピールした安倍氏とは対照的だった。

 22日午後、ホワイトハウスの大統領執務室。会談を終えた安倍、オバマ両氏が記者団の前に姿を現した。両首脳が会談内容について説明した後、米メディアからオバマ氏に飛んだ質問は、日本とは関係ない米政府支出の強制削減について。オバマ氏は質問に答えた後「これは米国内向けの質問だから、次の質問は安倍首相に」と促したが、米側記者から会談に関する質問は出なかった。

 そのオバマ氏も、日本の記者からの「尖閣問題についての考えを説明してください」という問いかけには答えなかった。米政府は会談後、環太平洋経済連携協定(TPP)についての共同声明の文書を発表しただけで、会談全体の意義については触れなかった。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 TPPについて、安倍首相が強く取引としてアメリカに要求した、「例外なしですべての項目で完全の撤廃ということはない」ということをアメリカは、日本が差し出した50兆円分という 巨額のアメリカ財政へのわいろ金の 見返りとして認めた。

 この記事の中の「 ・・・・米メディアからオバマ氏に飛んだ質問は、日本とは関係ない米政府支出の強制削減について。
・・・・・米側記者から(日米首脳)会談に関する質問は出なかった。」 の部分が重要だ。

 米メディア と野党である 共和党の議員たちの関心 と疑惑は、「日本は一体、いくらの貢ぎカネをオバマに差し出したのか。それで、アメリカの財政破たんの危機は、何か月先延ばしされるのか」 である。

 日本の安倍首相が、オバマ政権に持ってきた「日本政府による50兆円の 米国債買い」 という日本からの米財政への支援金の話である。これは日米密約となっている。そしてこの50兆円で、安倍政権は、アメリカからのTPPの厳しい要求を回避し、かつ、 尖閣問題での 日本の苦しい立場 (中国政府は、本気で怒りだしている) を、オバマが、知らん顔をして、「日本側の要求を、関知しない態度ということで、飲む」 という 態度に出た。 

 今年中に、中国との軍事衝突( conflagration コンフラグレイション)の可能性が出てきた。そして米軍のこれへの支援はない。「日本は、アメリカに頼らないで自分でやる」と 安倍晋三は、質疑に対して口を滑らせてしまった。以下の記事の中にある。

 「行きはよいよい、帰りはコワイ」である。日本の自民党支持の資産家や経営者たちの90% は、今、好景気になりそうだと、浮かれ騒いでいる。 これが、いったい 秋ごろからどういうことになるか、本当に、私たちはこのあとの無様な 日本の衰退国家への道を 凝視(ぎょうし)しなければいけない。

ヒラリーはもういない。だからアメリカは日本を助けない。ホワイトハウスのカーニー報道官は、そのことをはっきりと言っている。

(転載貼り付け始め)

「 米報道官、尖閣問題で返答に窮し「知らない」 」

読売新聞  2013年2月23日(土)21時4分配信

【ワシントン=中島健太郎】 沖縄県の尖閣諸島に関する米政府の立場について、カーニー米大統領報道官が22日の記者会見で米記者の質問を理解できず、返答に窮する一幕があった。

 尖閣問題でクリントン前国務長官は今年1月、「日本の施政を害しようとするいかなる一方的行為に反対する」 と、従来より踏み込んだ表現で中国をけん制し、日本政府はこれを歓迎した。同日の日米首脳会談直前の記者会見でクリントン発言に関する質問を受けたカーニー氏は、「クリントン氏はもう長官ではないが……」 などと的はずれの回答をしたうえで、「その発言は知らない」と述べた。

 同日の日米外相会談では尖閣諸島への日米安全保障条約適用を再確認したが、大統領の考えを代弁する立場の報道官の関心は低いことが露呈した形だ。



「 日米首脳会談 首相、米の「衝突」懸念に配慮

毎日新聞  2013年2月23日(土) 

 安倍晋三首相は22日のオバマ米大統領との首脳会談で、沖縄県・尖閣諸島の国有化を巡って関係悪化した中国との対話促進に意欲を示した。中国に対し「日米連携」で対処するのが、日本政府の基本戦略。しかし、肝心の米国は東アジアの安定に向け、中国を過度に刺激しないよう日本側にシグナルを送る。首相は中国や韓国との連携に前向きな姿勢を強調し、米側に配慮した。【松尾良】

対中対話を強調

 「(日中対立を)エスカレートさせるつもりはない。対話の窓、ドアは常に開かれていると申し上げたい」
 首相は日米首脳会談後の記者会見で、中国の習近平総書記に首脳会談の実現を呼びかけた。中国による尖閣周辺での領海・領空侵犯を受けて、米国では日中間の偶発的な衝突に対する懸念が拡大。首相は尖閣を日本の領土と強調しながらも、冷静に対応する考えを示した。

 この日の日米外相会談で、ケリー国務長官は岸田文雄外相に対し、「尖閣は日米安全保障条約の適用範囲」との見解を改めて表明。しかし、首相は米戦略国際問題研究所(CSIS)での質疑で「米国にこれをやってくださいということはない。尖閣は私たちの力で守る」と述べ、米国を巻き込む事態は招かない考えを示唆した。・・・

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝



[1223]石堂清倫の陸軍批判・情報武官小野寺信について
投稿者:田中進二郎
投稿日:2013-02-25 03:06:38

前回の訂正、石堂清倫の陸軍批判と情報武官小野寺信について
田中進二郎です。二週間前に投稿した『アジア人同士戦わず』の思想の源流を探る、についていくつかの間違いがありました。遅くなりましたがお詫び、訂正します。


(前回の間違い箇所1)
「1941年12月8日の真珠湾攻撃の当初から、「八百長」戦争であったわけで、フランクリン・D・ルーズベルトはハワイのパールハーバーに、太平洋艦隊を囮(おとり)として攻撃させる戦術(作戦)を用いた。また日本軍は日本軍で、太平洋艦隊を「奇襲」攻撃した後、第二次攻撃の命令を待っている航空隊に、「攻撃は終了、帰って来い」という命令を出している。
そのころ、ルーズベルト大統領はパーティーで婦人たちに、「もうすぐ、日本が攻撃してくるころだ。ハハハ」と笑みをうかべていた。
そして、その後にあの有名な“Remember  Pearlhabour”の演説となるのである。

(参考 「真珠湾の真実」(ルーズベルト欺瞞の日々)ロバート・スティネット著 文芸春秋 ほか この本は副島先生も「必読だ。」と著書で書かれている。)」
と書きましたが、「もしや」と思って調べてみたら、上に書かれていること全てが副島先生の『時代を見通す力』(PHP研究所)のP296~298に書かれている事柄でした。
(ただし「八百長」戦争という言葉は私田中が勝手に書いたものです。)


(前回の間違い箇所2)
「石堂清倫(いしどう きよとも 1904~2001年)が97歳の高齢でなくなられるまえに
グラムシ・シンポジウムというのがあった。アントニオ・グラムシ(イタリア共産党の創設者のひとり ベニト・ムッソリーニのライヴァルだった。)研究家や社会思想家が石堂さんを囲み、グラムシ思想について研究の発表をするという会で、確か、ロマーノ・ヴルピッタ氏が開会の辞を述べていた。ヴルピッタ氏というのは「ムッソリーニ」(中公叢書)の著者で、昨年の六月に「今日のぼやき」(1310 広報ぼやき)で吉田祐二さんが紹介されたの
でご記憶の方も多いだろう。また石堂さんはまさにロシア革命からソ連邦崩壊までの社会主義の世界をずっと生きてきたような、日本の左翼知識人の元祖である。」
と書きましたが、ロマーノ・ヴルピッタ氏ではなく、、グラムシ・ローマ研究所所長ジュセッペ・ヴァッカ氏の間違いでした。(ヴルピッタとヴァッカを間違えるなんて私もバカである。失礼しました)


石堂清倫が日本の軍部がいかに戦略を持たずに、日中戦争を行ったかについて批判している文章があったので、引用します。
(「ヘゲモニー思想と変革への道』~革命の世紀を生きて 第一章より
引用開始)  

 日本の中国侵略戦争の教訓
 第二次世界戦争は世界史におけるひとつの転折点であったといわれる。その一方の主役である日本の、十五年にわたる中国侵略について、戦後いくたの研究がなされ、日本帝国主義の特殊侵略的な性格に反省が加えられたことは事実である。その一方で、歴代の内閣閣僚が戦没者の英霊を慰めると称して、靖国神社に示威的に参拝していることに象徴されるように、形をかえた侵略思想が維持されていることもまた事実である。

 一九三一年九月一八日に始まる満洲の軍事占領の結果として、カイライ国家満洲国が建設されたとき、軍部はこれを王道楽土と称した。満洲は実態としては軍事国家であったが、侵略当事者が「王道」、すなわち道徳による統治の看板をあたえたのは痛烈な皮肉であった。われわれの世代のものは、軍民を問わず、青年期に儒教的教養を身につけている。孔子や孟子を大なり小なり読んでいるのである。その孟子は、武力統治を覇道として斥け、道徳による統治を王道として尊重した。関東軍首脳の人びとは陸軍幼年学校、士官学校、そして陸軍大学で何回も王覇の別を教わったはずである。彼らが何ひとつ学ばなかった例はこれだけでなく、とりわけ、教科として重視された孫子や呉子の兵法に反する戦略をとりつづけて敗戦に至ったこととあわせて、よく記憶すべきことであろう。

 ついでに言えば、政治における理と力は孟子に始まるわけでなく、彼より三世紀も前にすでに墨子にその兼愛説にもとづく「非攻」すなわち戦争反対論の一節がある。孟子や墨子ほど有名でないが後漢の王充(二七-七七?)の『論衡』巻十に、国を統治するには第一に徳を養い、第二に力を養うことであり、徳を尊ぶならば戦うことなしに同意させることができるという一節がある。

 日本人のあいだに普及していた王覇の論が道徳的・倫理的同意形成の政治理論に発展しなかった経過は別に論じなければならないが、このヘゲモニーの事実は日本の中国侵略戦争の経過でも見聞することができたのである。とくに三〇年代後半の日本軍と中国軍との交戦が、しだいに後者に有利に傾き、時がたつにつれ中国軍が個々の会戦に勝利していることをわれわれは知っていた。国民政府軍と人民解放軍との内戦段階では、それがいっそう際だつようになった。

勝利がたんに軍事技術的に得られるだけでなく思想戦としても展開され、戦闘開始以前に「民心」がすでに解放軍に集まっている状況が新聞報道をつうじてよくわかった。ただ、われわれにはそれを道理と暴力の弁証法として理解する力がなかった。国内に居たものもそうであろうが、中国から帰還した兵士たちはもちろんのこと、居留民たちも、軍事に従属した日本の政治しか知らないものが、新しい中国に生まれている「軍事を自己に従属させる政治」に触れて何を感得したであろうか。

 三〇年代の末に、中国各戦線の指揮官たちがもはや軍事的成功の展望をもてなくなったとき、満鉄調査部が、おそらく支那派遣軍総司令部の内面的示唆に応じて、「支那抗戦力調査」として中国の抗戦能力を分析したことを想起したい。その結論は、日本と中国の関係問題はもはや軍事的には解決の可能性はなく、政治的に打開する外はないということである。新しく政治的外交的に中国と交渉を開始するには、当然の前提として、日本軍部隊をすべて中国から引きあげることが含意されていた。言いかえればこれまでの軍略を新しい政略に従属させることがその前提であった。

軍内部にはこの選択を期待する状況があったにもかかわらず、どのような機微の逆転によるかまったく不明であるが、東條英機らの強硬派の主動によって満鉄調査部関係者の大量検挙のような奇襲によって、軍略が政略を圧倒した。しかし、十五年戦争における軍部は、日露戦争時代とちがい統帥権の独立の建前から政治を軍事に完全に従属させていたのであって、このことは『統帥綱領』(一九四七年復原版)の解説が、国家戦略不在のせいぜい野戦軍レベルの戦術の硬直した形式化にとどまり、クラウゼヴィッツが戒めた「依法主義」(Methodismus)に囚われていたのである。
その結果、わが陸軍が養成した将帥は、せいぜい方面軍の指揮官にすぎず、国家の運命を左右する国軍の指揮官は生れる由もなかった。(クラウゼヴィッツ生誕二百周年記念論文集『戦争なき自由とは』五二五頁)。軍事思想の根幹がそうであったから、「調査」を局面転換の一手段として利用することは結局失敗したのであろう。

いしどう・きよとも 一九〇四年、石川県生まれ。二七年東京帝国大学文学部卒。在学中東大新人会に入り、日本共産党に入党し、二八年治安維持法で検挙。三三年転向し三八年まで日本評論社に勤め、三八年満鉄調査部に入社して大連に渡り、大連図書舘などに勤務。四三年満鉄調査部事件第二次検挙で逮捕、四五年懲罰応召、敗戦を関東軍二等兵としてハルピンで迎え、大連に戻った後、四九年まで労働組合で働く。帰国後日本共産党に入り、六〇年頃離党。七七年には荒畑寒村らと運動史研究会を結成し、『運動史研究』(全一七巻)を刊行。グラムシ研究会を創立、グラムシ思想の普及に努める。おびただしい訳書以外の著作に『わが異端の昭和史』(正・続)『異端の視点』『中野重治と社会主義』『大連の日本人引揚の記録』等がある。
(引用終わり)


田中進二郎です。前回「戦略なき戦争に突っ込んでいった日本軍部」と私は批判しました。上の石堂さんの文章にも納得するところが大ですが、「方面軍の指揮官程度しかいなかった」、という指摘については、うーん、どうなんだろう?あとクラウゼヴィッツの「依法主義」という言葉もよくわかりません。

副島先生の「時代を見通す力」には次のような記述があります。
(p294より引用開始)
・石原莞爾(いしはら かんじ)の警告「間違ってもアメリカとは戦争するな」
米内光政(よない みつまさ)海軍大将(37年の近衛文麿内閣では海軍大臣)はアメリカとひそかに連動していただろう。右腕だった井上成美(いのうえ しげよし)次官も、その五年先輩の山本五十六(やまもと いそろく)大将も当然ながら常に米内と共同歩調をとっている。彼ら海軍のトップたちは三国軍事同盟に反対し、ロンドンとワシントンの軍縮条約に賛成した「条約派」であり平和主義者だということに評価が戦後できてしまった。
今の今でも日本の戦争史や政治評論界では「アメリカと戦っても勝ち目はないと正論を言っていたのに、陸軍がそれに聞く耳を持たず暴走した」ということになっている。そんなものは真っ赤なウソである。ここで私ははっきり書く。後の東京裁判でA級戦犯として絞首刑にされた軍人たちのなかに海軍は一人も入っていないのである。

関東軍参謀だった「戦争思想の天才」石原莞爾陸軍中将も、日本の満州権益を守るために、彼自身が初期にかなり謀略的なことをした。けれども石原は戦争不拡大派だった。「中国本土には手を出すな」といい続けた。石原はアメリカに対しても冷静だった。綿密で詳細な国力比較した結果から、海軍の米内や山本たちよりずっとはやくからから「絶対に負けるから間違ってもアメリカとは戦争をしちゃいかん」と言っていた。
それもあって左遷され、満州から日本に早々と帰された。東条英機首相と
ぶつかって、満州国の設計者の地位を追われた。49歳で京都師団長となって、このあと退役、昭和十六年(1941年)には予備役に編入だ。石原たち「不拡大派」は主導権争いに敗れたのだ。
(引用おわり)


田中進二郎です。『消えたヤルタ密約緊急電-情報士官・小野寺信(おのでら まこと)の孤独な戦い』岡部 伸 (おかべ のぶる)著  (新潮選書) によると、日中戦争開始後一年半近くたった、1938年12月に日中和平工作が水面下で始まったという。日本軍が中華民国の首都南京を占領した後のことである。
(以下要約・引用します。p120~132)

情報士官の小野寺信は南京におかれた総司令部から、国民党の蒋介石との直接和平の可能性を探るよう命を受ける。陸軍参謀本部は支那課とロシア課で作戦が違っていた。
支那課は南京攻略前から汪兆銘(精衛)の傀儡(かいらい)政権をたてることによって、蒋介石国民党政府を弱体化させて、和平にこぎつけようとしていた。陸軍参謀本部は圧倒的にこの考えが強かった。この作戦は「梅工作」
と呼ばれた。

一方、ロシア課の小野寺はハルビンで情報武官として教育を受けたあと、ポーランドやバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、スウェーデンなどの情報武官と厚い信頼関係を築き、ソ連やナチス・ドイツの軍の動向をつかんでいた。その小野寺は、「傀儡政権は世界史的にみても多くの場合は失敗する。」ということをヨーロッパの民族の興亡を肌で学んでいた。「中国のナショナリズムを考えると、傀儡の汪兆銘政権では、中国の民衆の信頼を得られない。重慶の蒋介石政権に直接和平交渉を開くしかない。」と考えた。

また蒋介石の国民党の背後に、敵対関係にありながら「抗日」で合体を模索する中国共産党がいて、それを操っているのは、世界に共産主義を浸透させようとしていたソ連のコミンテルンであることを見抜いていた。

英米が支持する国民党政府は国共合作を進めていて、日本軍が侵攻を続ける限り泥沼になるだろう。戦争が長期化すれば、利するのは中国共産党であり、ソ連である。そこで小野寺は早急に蒋介石と和平を結ぶことを考えたのであった。

この工作機関は「小野寺機関」と呼ばれ、『魔都』上海の外灘(通称バンド)のクラシック・ホテルに事務所と住居が置かれた。陸軍の総司令部も板垣征四郎陸軍大臣以下、小野寺に期待するところ大だったのである。この機関には、二十人ほど起用されたが、軍人はひとりもおらず、ソ連や中国共産党の事情にくわしい転向者を多かった。また近衛文麿の息子文隆も加わっていた。

小野寺は蒋介石との会談相手を、近衛文麿首相か板垣征四郎陸相のどちらかにすると構想していたようだ。しかし、陸軍参謀本部はそこから小野寺を支援しなくなる。近衛文麿も積極的ではなかったという。そして支那課の汪兆銘傀儡政権工作派が巻き返していき、小野寺機関は解体される。小野寺信は左遷され、近衛文隆は上海で軟禁された。その他の日本人は逮捕され、中国人工作者は処刑の憂き目にあう。

結局、日本の陸軍参謀本部は片方で傀儡政権を樹立し、片方で蒋介石との直接和平を模索するというダブル・スタンダードを行ったのである。これでは交渉相手の信頼は勝ち取れなくて当たり前である。機関を解体され、上海を去ることになった小野寺に対して、蒋介石は部下を通じて、金製のカフスボタンを贈った。それには「和平信義」と彫られていたという。
(要約・引用終わり)

田中進二郎です。ながく引用を繰り返してしまいました。泥沼の日中戦争をなんとか食い止めようという動きがあった、ということは少しは日本人として明るくなれることではないでしょうか。
また今も尖閣問題でゆれる日中関係をどこかで、誰かが立て直そうとがんばっているだろうと思い、そういう人の応援になれば、と思い書きました。
ちなみに私は左翼活動家ではありませんので、その点はどうか誤解されないように。「アジア人同士戦わず」の精神を守ってゆきましょう。
田中進二郎拝
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上杉

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